Yasuhiro Yamashita overcome 3
Yasuhiro Yamashita at the 1984 Los Angeles Olympics

The Modern Olympics have been going strong since 1896, so there is no shortage of stories about Olympians or Olympics past. Here are a few I wrote about in 2017.

 

Mark Hamill with Olympian and Darth Vader stand in Bob Anderson
Mark Hamill with Olympian and Darth Vader stand-in Bob Anderson
Rose and Yamanaka
Murray Rose and Tsuyoshi Yamanaka

February

May

Betty Cuthbert 4_winning gold in the 200-meters at the 1956 Melbourne Games
Betty Cuthbert edges Christa Stubnick in 200-meter finals at the Melbourne Games

August

October

November

December

 

Syd Hoare from The A to Z of Judo
Syd Hoare portrait from back cover of his book, The A to Z of Judo

 

Penn Alumni at Meji Jingu_25Nov_8
On a tour of Meiji Shrine.

 

I have lived in Japan for over 16 years, and I still have so much to learn – what an amazing people, history and culture. I hope an article or two in this list give you some insight into Japan.

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Ted Mittet surrendering his American team’s cowboy hat, gifted by President Johnson to the male Olympians
Geesink vs Kaminaga 2_Tokyo Olympics Special Issue_Kokusai Johosha
From the book, “Tokyo Olympics Special Issue_Kokusai Johosha”

それは1964年10月23日だった。

日本武道館は多くの人でごった返していた。しかしそこに漂っていたのは、諦めにも似た空気だった。東京オリンピック閉幕前日の事だった。

3人の柔道家・中谷 雄英、岡野 功、猪熊 功が3日ほど前に3階級で金メダルを獲得していたにも関わらず、今回、無差別級日本代表・神永 昭夫が、果たしてオランダ代表アントン・ヘーシンクを倒せるのか否か、それは半信半疑といったところだった。

なぜなら、ヘーシンクは1961年の世界大会で、日本人以外の選手として初めて優勝を果たし、世界を驚かせた人物だ。もっと言ってしまえば、ヘーシンクは予選ですでに神永に勝利している。日本中が予想を覆す大勝利を期待する一方、観衆が出来る事と言えば、体重120kg・身長2mを優に超す巨人と、体重102kg・身長180cmの日本人が、横に並んでいるのを見つめる事だけだった。そしてその武道館で、天皇皇后両陛下もご観覧されていた。

真の柔道家なら分かることであるが、柔道において、勝つためには体格よりも技、バランスそして筋肉の整合がより大事になってくる。しかしそうは言っても、多くの観衆は大きくて強靭な外国人選手が勝つのだろうと思っていた。それはまるで、大きく屈強なアメリカ軍とその同盟軍が、太平洋戦争で大日本帝国軍を打ち破ったのと同じことであろうと。

事実、ヘーシンクはいともたやすく神永を破り、日本中を落胆させた。

そして同じく10月23日の夕暮れ時、神永が敗北した日本武道館から13キロ南西に離れた駒沢オリンピック公園総合運動場体育館では、日本女子バレーボールチームが決勝戦に向けて準備を進めていた。彼女らもまた、大きく屈強なソビエト連邦代表の選手達に立ち向かわなければならなかった。

しかしこの場所で漂っていたのは、東洋の魔女ならきっとソビエト連邦チームを打ち負かしてくれる、そんな人々の思いであった。事実、1962年モスクワで行われた世界大会では、日本代表は窮地に追い込まれながらも勝利を収めている。それもあってか、その金曜日の夜、4つの局が試合放送する中、全日本国民と言っても過言ではない程の人たちがテレビの前にかじりつき、勝利の歓喜に沸く瞬間を、いまかいまかと待ちわびていた。

とはいえ、へーシングが神永を畳に沈めばかりで、それは同時に、数あるオリンピック競技の中で、唯一日本のお家芸である柔道で金メダルを独占するという願いも、同時に沈められたばかりであった。私たちはまだ強くないのか、いやいや、十分強いはずだ、、、多くの人が自問自答したことだろう。

女子バレーボール監督大松 博文は、この挑戦を受け入れ、数年をかけて、選手達の体格故の弱点や強さスピードを如何に補うかに取り組み、そして難易度の高い技の習得や根性を選手たちにたたきこんだ。そして日本代表は、ソビエト連邦代表にストレートで勝利し、ようやく日本国中が安堵と歓喜に満ち溢れた。15-11,15-8,そして一進一退の攻防の末、15-13で最終セットを奪取した。

Japan's Women's Volleyball team victorious 1964_Bi to Chikara
Japan’s Women’s Volleyball team victorious from the book, Bi to Chikara

そしてその金曜日の夜、2週間に及んだ東京オリンピック閉会式前夜、小柄の日本人女性たちが遥かに大きいソビエト連邦代表に勝利した事で、彼女たちの国がいかに認められ、そして尊敬に値するのかを世界に示す事となった。

神永の敗北が未だ心を痛めるも、インドネシアのボイコットを遺憾に思うも、北朝鮮が去ってしまっても、そしてもしかすると、太平洋戦争に敗戦し、あの日玉音放送から流れ出た恥辱のようなものも、決勝戦で最後のボールがコートに落ちた瞬間、きれいに洗い流されたのかもしれない 

その日、日本は生まれ変わった。若く、自信にあふれ、世界を牽引できる国として。

 

For English version of October 23, 1964: How Judo and Volleyball Transfixed and Transformed Japan within the Span of a Few Hours.

僕が若く、今よりずっと若かった頃は

誰かの助けを必要とする事なんて何もなかった

でもいつしかそんな日々は流れ、僕は自信を失ってしまった

気が付けば僕の考えは変わり、そしてその扉を開けたんだ

Help! By John Lennon and Paul McCartney

 

1964年、日本は若かった。今よりも遥かに若かった。活気に溢れ、建物は新しく、近代的な国。世界がオリンピックを通して目にする事になるその国は、友好的で誇り高く、思いやりがあり、高い技術力を持ち、そして陽気であった。

1964年、ザ・ビートルズはアメリカを席巻する。彼らの前途は、そしてどこまでも続くその成功は、誰からの助けも必要としていなかった。彼らの記者会見からもわかる事がだが、彼らの宿泊先での悪ふざけ、エド・サリバンショーへの出演や、ワシントンDC・フロリダへの旅といったリバプールから来たこの4人の若者は、アメリカ人が一緒に街へ繰り出したいと願う友の様な存在であった。ロン・ハワード監督の映画、「The Eight days a Week」に映るのは、ジョン、ジョージ、ポール、そしてリンゴの4人が、共に過ごす時間を心から楽しんでいる姿である。

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The Beatles Landing at Haneda Airport

 

私がこの映画を観たのは、つい先週の事だ。その映画が良作なのか駄作なのかはさておき、ハワード監督はザ・ビートルズとその音楽に徹底的にこだわっていた。筋金入りのビートルズファンとしてみれば、鑑賞中は終始顔がほころんでしまう。作品の中で、活動の前半期にあたる1964年に焦点をあてた辺りは、彼らの愉快さをそのまま体現させたようなザ・ビートルズのポートレートとなっている。

ザ・ビートルズは、なにもアメリカでだけ時間を費やしていたわけではない。結論から言うと、彼らが交わしたレコード契約の報酬は決して十分なものではなく、自らツアーに出て、彼らが本来受け取るに相応しい金額を、自分達で稼がなければならなかった。1964年2月、彼らはアメリカで初公演を行い、その年の半ばには、デンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、そしてニュージーランドを巡る27日間のツアーを開催。このツアーで彼らは計37公演を行った。そして8月にはアメリカに戻り、23都市30公演を決行。彼らは行く先々で、ファンに揉みくちゃにされるのである。

 

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 著明な作家マルコム・グラッドウェルは、ロン・フォワード監督の作品の中で、ザ・ビートルズとは、この才能あふれる4人の人気が、新しいグローバルな10代文化の波に乗って起こした社会現象であると話している。1964年の10月、世界中のオリンピック選手が東京に集結した際、そのほとんどの選手が10代またはそれに近い年齢層であったため、ザ・ビートルズを知っているのはもちろんの事、彼らの歌もよく歌われていた。

 1964年、ブルガリアの走り幅跳び選手として東京オリンピックに参加していたダイアナ・ヨーゴバは、私に宛てた手紙の中でこう話している。きつい練習の合間に取る休憩時、彼女は女子寮の中にあったミュージックホールへ行き、好きな音楽を聴いた。彼女のお気に入りの一つが「With the Beatles」というアルバムで、これは1963年11月に発売されたものであった。傍らで行われている生け花レッスンを横目で見ながら、そこから漂う花の香りを楽しみつつ、彼女はお気に入りの曲を聴いた。All My Loving, Please Mister Postman, Hold me Tight, I Wanna Be Your Man.

 アダ・コック、オランダの水泳選手で1964年東京オリンピック100mバタフライと4×100mメドレーにて、銀メダルを2つ獲得した選手だが、彼女もまたビートルズファンの一人である。女子寮で彼女が私に話したのは、オランダ代表選手とオーストラリア代表選手は、メダルを獲得した際に、とりわけ騒々しいパーティーを開いていたそうだ。彼らはビートルズを歌いながら、夜通し祝っていたという。

 しかしだ・・・いつまでもいいことばかりではない・・・。

 1964年の東京オリンピックは、最後の純真な大会だと考えられている。最後の清廉潔白なるオリンピック。警備が最重要課題に上がる事もなければ、ドーピングが流行っていたわけでもない。スポンサーへのワイロの支払が、堂々と行われていたわけではない。皆が楽しい時間を過ごしていた。

 しかし地政学的な情勢が、そして社会の奥底でうごめく何かが、少しずつ明るみになろうとしていた。1968年メキシコオリンピックで、開会式直前に犠牲者数百人にも及ぶ大虐殺が行われ、1972年ミュンヘンオリンピックの選手村では、パレスチナのテロリストによって、11人のイスラエル人が殺害されている。世界はオリンピックを歓喜と純真から、冷笑と憂いに変えてしまった。

でもいつしかそんな日々は流れ、僕は自信を失ってしまった

1966年、ビートルズは初来日し、6月30日と7月1日に計4公演を行う事になった。1964年10月、オリンピック参加の為に来日した外国人選手たちがそうであった様に、彼らもまた手厚い歓迎を受けた。彼らをよく知らない人たちから見れば、きっと世界一の有名人が、日本国民から最大級のもてなしを受けていると思ったであろう。しかし、ホワード監督の作品によれば、どうやらそうでもなかったようだ。

オリンピックに間に合うように建設された日本武道館で、ビートルズはミュージシャンとして初めて公演を行う事になっていた。しかし、右派の人たちからみれば、そもそも武道館は武道家達のものであり、そこに外国人のミュージシャンが突然やってきて音楽を演奏する・・・武道館が乗っ取られるのではないか・・・そんな思いから、彼らの事を快く思っていなかった。公演はビートルズマニアの絶叫の中、無事に幕を閉じたのだが、そこには厳戒な警備と、滞在中は十分に気を付けるようにと、ビートルズにも警告が出されていた。

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Security at the Budokan

 

1960年代後半は、オリンピックにとっても、ビートルズにとっても、そして私たちにとっても、試練の時となった純真な時代は終わったのだ。

For English Version of The Beatles Eight Days a Week: The Fab Four and the Olympics in 1964, Transitioning from Joy and Purity to Cynicism and Insecurity

Geesink vs Kaminaga 2_Tokyo Olympics Special Issue_Kokusai Johosha
Geesink and Kaminaga, from the book, “Tokyo Olympics Special Issue_Kokusai Johosha”

It was Friday, October 23, 1964.

The Nippon Budokan was packed. But perhaps there was a sense of resignation at this, the penultimate day of the 1964 Tokyo Olympics.

Despite the fact that three Japanese judoka, Takehide Nakatani, Isao Okano and Isao Inokuma had already taken gold in the first three weightclasses over the previous three days, there was considerable doubt that Akio Kaminaga could defeat Dutchman, Anton Geesink, in the open category.

After all, Geesink shocked the judo world by becoming the first non-Japanese to win the World Championships in 1961. More relevantly, Geesink had already defeated Kaminaga in a preliminary bout. So while the Japanese, including Crown Prince Akihito and Princess Michiko who were in the Budokan, were hoping Kaminaga would exceed expectations, all they had to do was see the two judoka stand next to each other to be concerned – the 2-meter tall, 120 kg foreign giant vs the 1.8-meter tall, 102 kg Japanese.

Even though judo purists know that skill, balance and coordination are more important to winning than size, deep down many likely felt that the bigger, stronger foreigner was going to win. After all, the bigger, stronger US soldiers and their allies had defeated the Imperial forces of Japan in the Pacific War.

And so Geesink did, defeating Kaminaga handily, sending the Japanese nation into a funk.

That was late in the afternoon on October 23. About 13 kilometers southwest of the Nippon Budokan and the site of Kaminaga’s defeat, the Japanese women’s volleyball team was preparing for their finals at the Komazawa Indoor Stadium. They too were going up against bigger, stronger adversaries, from the USSR.

In this case, however, there was a lingering sense that their magical women of volleyball would defeat the Soviets. They had in fact already done so at the World Championships in 1962, walking into the lioness’ den in Moscow and winning the finals. So when nearly every citizen in Japan had settled in front of their televisions that Friday evening, having the choice of four channels to choose from to watch the match, they were gearing up to explode in celebration.

And yet, Geesink had just sunk Kaminaga, as well as Japan’s hopes of sweeping gold in the only sport at the Olympics native to Japan. Maybe we just aren’t big enough, or strong enough, some may have thought.

Hirobumi Daimatsu, coach of the women’s volleyball team, accepted the challenge and worked over the years to train his players to compensate for relative weaknesses in size and strength, with speed, technique and guts. And much to the relief and joy of the nation, the Japanese defeated the Soviet Union in straight sets: 15-11, 15-8 and a tantalizingly close final set, 15-13.

Japan's Women's Volleyball team victorious 1964_Bi to Chikara
Japan’s Women’s Volleyball team victorious from the book, Bi to Chikara

And on that Friday evening, the day before the final day of Japan’s two-week Olympic journey to show the world that they were a nation to be recognized and respected, a team of diminutive Japanese women took down the larger Soviet women.

Whatever lingering sting from Kaminaga’s loss remained, whatever bad feelings of boycotts by the Indonesians or the North Koreans may have left, even perhaps, whatever shame that came from “enduring the unendurable” after the nation’s defeat in the Second World War, may have washed away in that moment the ball fell to the ground for the final point of the match.

On that day, Japan was a nation re-born – young, confident, world-beaters.

Syd Hoare_A Slow Boat to Yokohama
Syd Hoare, from his book, “A Slow Boat to Yokohama”

Syd Hoare, a member of Team Great Britain’s judo team in 1964, the year judo debuted as an Olympic sport in Tokyo, died on September 12, 2017. While I never had the honor to interview him, I did read his wonderful book, “A Slow Boat to Yokohama – A Judo Odyssey.”

Based on his life story as a young judoka, “A Slow Boat to Yokohama” tells well his journey to Japan to learn at the mecca of Judo in the early 1960s, and then competing at the 1964 Tokyo Olympics. I have borrowed those stories for a few of my blog posts:

For a wonderful look at Hoare’s past, here is an obituary penned by his daughter, Sasha Hoare, in The Guardian.

My father, Syd Hoare, who has died aged 78, was an Olympic judo competitor, author and commentator.

The son of Alfred Hoare, an executive officer at the Ministry of Defence, and Petrone (nee Gerveliute), a waitress, Syd enjoyed a wild childhood in postwar London: scrumping, climbing trees, jumping out of bombed-out houses on to piles of sand and being chased by park keepers. At 14, while a pupil at Alperton secondary modern school, Wembley, he wandered into WH Smith and found a book on jujitsu, which led to judo lessons at the Budokwai club in Kensington and sparked a lifelong passion for the sport.

Syd quickly became obsessed with judo and underwent intense training, often running the seven miles back to his home in Wembley to lift weights after a two-hour session at the Budokwai. In 1955, at 16 he was the youngest Briton to obtain a black belt and two years later won a place in the British judo team. He respected not only judo’s physical and mental aspects but its link to eastern philosophy.

For more, click here.

Syd Hoare from The A to Z of Judo
Syd Hoare portrait from back cover of his book, The A to Z of Judo