1964年10月23日:たった数時間で、柔道とバレーボールがどのように日本中をくぎ付けにし、そして変化させたのか

Geesink vs Kaminaga 2_Tokyo Olympics Special Issue_Kokusai Johosha
From the book, “Tokyo Olympics Special Issue_Kokusai Johosha”

それは1964年10月23日だった。

日本武道館は多くの人でごった返していた。しかしそこに漂っていたのは、諦めにも似た空気だった。東京オリンピック閉幕前日の事だった。

3人の柔道家・中谷 雄英、岡野 功、猪熊 功が3日ほど前に3階級で金メダルを獲得していたにも関わらず、今回、無差別級日本代表・神永 昭夫が、果たしてオランダ代表アントン・ヘーシンクを倒せるのか否か、それは半信半疑といったところだった。

なぜなら、ヘーシンクは1961年の世界大会で、日本人以外の選手として初めて優勝を果たし、世界を驚かせた人物だ。もっと言ってしまえば、ヘーシンクは予選ですでに神永に勝利している。日本中が予想を覆す大勝利を期待する一方、観衆が出来る事と言えば、体重120kg・身長2mを優に超す巨人と、体重102kg・身長180cmの日本人が、横に並んでいるのを見つめる事だけだった。そしてその武道館で、天皇皇后両陛下もご観覧されていた。

真の柔道家なら分かることであるが、柔道において、勝つためには体格よりも技、バランスそして筋肉の整合がより大事になってくる。しかしそうは言っても、多くの観衆は大きくて強靭な外国人選手が勝つのだろうと思っていた。それはまるで、大きく屈強なアメリカ軍とその同盟軍が、太平洋戦争で大日本帝国軍を打ち破ったのと同じことであろうと。

事実、ヘーシンクはいともたやすく神永を破り、日本中を落胆させた。

そして同じく10月23日の夕暮れ時、神永が敗北した日本武道館から13キロ南西に離れた駒沢オリンピック公園総合運動場体育館では、日本女子バレーボールチームが決勝戦に向けて準備を進めていた。彼女らもまた、大きく屈強なソビエト連邦代表の選手達に立ち向かわなければならなかった。

しかしこの場所で漂っていたのは、東洋の魔女ならきっとソビエト連邦チームを打ち負かしてくれる、そんな人々の思いであった。事実、1962年モスクワで行われた世界大会では、日本代表は窮地に追い込まれながらも勝利を収めている。それもあってか、その金曜日の夜、4つの局が試合放送する中、全日本国民と言っても過言ではない程の人たちがテレビの前にかじりつき、勝利の歓喜に沸く瞬間を、いまかいまかと待ちわびていた。

とはいえ、へーシングが神永を畳に沈めばかりで、それは同時に、数あるオリンピック競技の中で、唯一日本のお家芸である柔道で金メダルを独占するという願いも、同時に沈められたばかりであった。私たちはまだ強くないのか、いやいや、十分強いはずだ、、、多くの人が自問自答したことだろう。

女子バレーボール監督大松 博文は、この挑戦を受け入れ、数年をかけて、選手達の体格故の弱点や強さスピードを如何に補うかに取り組み、そして難易度の高い技の習得や根性を選手たちにたたきこんだ。そして日本代表は、ソビエト連邦代表にストレートで勝利し、ようやく日本国中が安堵と歓喜に満ち溢れた。15-11,15-8,そして一進一退の攻防の末、15-13で最終セットを奪取した。

Japan's Women's Volleyball team victorious 1964_Bi to Chikara
Japan’s Women’s Volleyball team victorious from the book, Bi to Chikara

そしてその金曜日の夜、2週間に及んだ東京オリンピック閉会式前夜、小柄の日本人女性たちが遥かに大きいソビエト連邦代表に勝利した事で、彼女たちの国がいかに認められ、そして尊敬に値するのかを世界に示す事となった。

神永の敗北が未だ心を痛めるも、インドネシアのボイコットを遺憾に思うも、北朝鮮が去ってしまっても、そしてもしかすると、太平洋戦争に敗戦し、あの日玉音放送から流れ出た恥辱のようなものも、決勝戦で最後のボールがコートに落ちた瞬間、きれいに洗い流されたのかもしれない 

その日、日本は生まれ変わった。若く、自信にあふれ、世界を牽引できる国として。

 

For English version of October 23, 1964: How Judo and Volleyball Transfixed and Transformed Japan within the Span of a Few Hours.

 

 

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