ザ・ビートルズ Eight days a Week: ザ・ビートルズと1964年オリンピック、歓喜と純真から冷笑と憂いへの移り変わり

僕が若く、今よりずっと若かった頃は

誰かの助けを必要とする事なんて何もなかった

でもいつしかそんな日々は流れ、僕は自信を失ってしまった

気が付けば僕の考えは変わり、そしてその扉を開けたんだ

Help! By John Lennon and Paul McCartney

 

1964年、日本は若かった。今よりも遥かに若かった。活気に溢れ、建物は新しく、近代的な国。世界がオリンピックを通して目にする事になるその国は、友好的で誇り高く、思いやりがあり、高い技術力を持ち、そして陽気であった。

1964年、ザ・ビートルズはアメリカを席巻する。彼らの前途は、そしてどこまでも続くその成功は、誰からの助けも必要としていなかった。彼らの記者会見からもわかる事がだが、彼らの宿泊先での悪ふざけ、エド・サリバンショーへの出演や、ワシントンDC・フロリダへの旅といったリバプールから来たこの4人の若者は、アメリカ人が一緒に街へ繰り出したいと願う友の様な存在であった。ロン・ハワード監督の映画、「The Eight days a Week」に映るのは、ジョン、ジョージ、ポール、そしてリンゴの4人が、共に過ごす時間を心から楽しんでいる姿である。

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The Beatles Landing at Haneda Airport

 

私がこの映画を観たのは、つい先週の事だ。その映画が良作なのか駄作なのかはさておき、ハワード監督はザ・ビートルズとその音楽に徹底的にこだわっていた。筋金入りのビートルズファンとしてみれば、鑑賞中は終始顔がほころんでしまう。作品の中で、活動の前半期にあたる1964年に焦点をあてた辺りは、彼らの愉快さをそのまま体現させたようなザ・ビートルズのポートレートとなっている。

ザ・ビートルズは、なにもアメリカでだけ時間を費やしていたわけではない。結論から言うと、彼らが交わしたレコード契約の報酬は決して十分なものではなく、自らツアーに出て、彼らが本来受け取るに相応しい金額を、自分達で稼がなければならなかった。1964年2月、彼らはアメリカで初公演を行い、その年の半ばには、デンマーク、オランダ、香港、オーストラリア、そしてニュージーランドを巡る27日間のツアーを開催。このツアーで彼らは計37公演を行った。そして8月にはアメリカに戻り、23都市30公演を決行。彼らは行く先々で、ファンに揉みくちゃにされるのである。

 

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 著明な作家マルコム・グラッドウェルは、ロン・フォワード監督の作品の中で、ザ・ビートルズとは、この才能あふれる4人の人気が、新しいグローバルな10代文化の波に乗って起こした社会現象であると話している。1964年の10月、世界中のオリンピック選手が東京に集結した際、そのほとんどの選手が10代またはそれに近い年齢層であったため、ザ・ビートルズを知っているのはもちろんの事、彼らの歌もよく歌われていた。

 1964年、ブルガリアの走り幅跳び選手として東京オリンピックに参加していたダイアナ・ヨーゴバは、私に宛てた手紙の中でこう話している。きつい練習の合間に取る休憩時、彼女は女子寮の中にあったミュージックホールへ行き、好きな音楽を聴いた。彼女のお気に入りの一つが「With the Beatles」というアルバムで、これは1963年11月に発売されたものであった。傍らで行われている生け花レッスンを横目で見ながら、そこから漂う花の香りを楽しみつつ、彼女はお気に入りの曲を聴いた。All My Loving, Please Mister Postman, Hold me Tight, I Wanna Be Your Man.

 アダ・コック、オランダの水泳選手で1964年東京オリンピック100mバタフライと4×100mメドレーにて、銀メダルを2つ獲得した選手だが、彼女もまたビートルズファンの一人である。女子寮で彼女が私に話したのは、オランダ代表選手とオーストラリア代表選手は、メダルを獲得した際に、とりわけ騒々しいパーティーを開いていたそうだ。彼らはビートルズを歌いながら、夜通し祝っていたという。

 しかしだ・・・いつまでもいいことばかりではない・・・。

 1964年の東京オリンピックは、最後の純真な大会だと考えられている。最後の清廉潔白なるオリンピック。警備が最重要課題に上がる事もなければ、ドーピングが流行っていたわけでもない。スポンサーへのワイロの支払が、堂々と行われていたわけではない。皆が楽しい時間を過ごしていた。

 しかし地政学的な情勢が、そして社会の奥底でうごめく何かが、少しずつ明るみになろうとしていた。1968年メキシコオリンピックで、開会式直前に犠牲者数百人にも及ぶ大虐殺が行われ、1972年ミュンヘンオリンピックの選手村では、パレスチナのテロリストによって、11人のイスラエル人が殺害されている。世界はオリンピックを歓喜と純真から、冷笑と憂いに変えてしまった。

でもいつしかそんな日々は流れ、僕は自信を失ってしまった

1966年、ビートルズは初来日し、6月30日と7月1日に計4公演を行う事になった。1964年10月、オリンピック参加の為に来日した外国人選手たちがそうであった様に、彼らもまた手厚い歓迎を受けた。彼らをよく知らない人たちから見れば、きっと世界一の有名人が、日本国民から最大級のもてなしを受けていると思ったであろう。しかし、ホワード監督の作品によれば、どうやらそうでもなかったようだ。

オリンピックに間に合うように建設された日本武道館で、ビートルズはミュージシャンとして初めて公演を行う事になっていた。しかし、右派の人たちからみれば、そもそも武道館は武道家達のものであり、そこに外国人のミュージシャンが突然やってきて音楽を演奏する・・・武道館が乗っ取られるのではないか・・・そんな思いから、彼らの事を快く思っていなかった。公演はビートルズマニアの絶叫の中、無事に幕を閉じたのだが、そこには厳戒な警備と、滞在中は十分に気を付けるようにと、ビートルズにも警告が出されていた。

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Security at the Budokan

 

1960年代後半は、オリンピックにとっても、ビートルズにとっても、そして私たちにとっても、試練の時となった純真な時代は終わったのだ。

For English Version of The Beatles Eight Days a Week: The Fab Four and the Olympics in 1964, Transitioning from Joy and Purity to Cynicism and Insecurity